瓦林 潔     (明治36年〜平成2年 朝倉中学第9回卒 故人)


  厚いじゅうたんが敷き詰められ、都会の喧騒から隔絶された福岡市渡辺通の九電ビル新館会議室。「やあ、お待たせ…」ドアが開くなり、瓦林潔(朝倉中学9回生)の声がかかった。白いものがちらほら交じるが、濃くて太いマユ。あごはがっしり張り、同窓会名簿を繰る指が太い。

 浮羽郡田主丸町出身。朝中へは両地区軌道に揺られて通学した。中央大学法学部を卒業後、浮羽郡の郡部や三井郡、朝倉郡が供給区域だった筑後電気へ入社したのが昭和2年。その後、九電の前身の九州水力へ移り、取締役経理部長、そして九州電力常務、同副社長と昇進し、同42年から8年間社長を務め、現在は会長。

 「起きるのは午前6時。甘木までかれこれ40分かかったが、乗り遅れて“オーイ”と呼ぶと待ってくれてたよ」。明治45年、甘木−田主丸間に開通した両筑軌道での通学風景は前にも紹介したが、冬の寒い朝にはレールが凍った。いたずら盛りの中学生は軌道の立ち往生は大歓迎。「両筑橋(筑後川)の坂に差しかかるとスリップしてストップ。後押しするのが当たり前なのに、逆に上級生の命令一下、来た方に引き戻すんだよ。」

 ところが、瓦林を知る下級生に言わせると、この引き戻しは「大親分だった瓦林さんがしょっちゅうやったこと。自分だけ客車に乗っていて軌道をストップさせて面白がっていた」という“真実”になる。瓦林が漂わせる“雑草イズム”は案外、こうした自由奔放な環境が育てあげたのかもしれない。

 瓦林は永年にわたる電力事業功労で49年に勲一等瑞宝章を受けた。そのとき、西鉄グランドホテルで催された祝賀会での謝辞がそっくり、瓦林の身上になっている。「私は子どものころから雑草のように生きてきた。その私がこうした栄誉を受けるのはうれしい反面、ふさわしくない気もする。」

 雑草は野に生きてこそ、というわけだが、この瓦林は本業の九州電力会長をはじめ九州・山口経済連合会会長、西日本政経懇話会会長、九州文化協会会長…と「長」と名の付く会社、団体での役職が数えて23(52年6月現在)。在インドネシア領事館名誉領事も肩書の一つで、国際的にも顔が広い。

 「九州は1つ」を唱え、地域社会の経済的、文化的地位の浮揚に情熱を傾け、その東奔西走ぶりはとても古稀を過ぎた人とは思えない。故池田、佐藤元首相はじめ福田前総理とも電話で話せる実力者。九州政財界の押しも押されもせぬ第一人者だ。

 

以上、昭和54年刊「朝倉中学・高校物語−朝中原林」(長野敏樹著)より。

 

明治36年(1903) 4月10日生 

大正10年(1921) 3月 福岡県立朝倉中学卒業

昭和 2年(1927)10月 中央大学卒業

昭和 3年(1928) 2月 九州水力電気子会社「筑後電気」に入社

昭和26年(1951) 5月 九州電力発足・九州電力理事総務部長

昭和37年(1962)10月 藍綬褒章受章

昭和39年(1964) 3月 福岡県公安委員会委員長

昭和42年(1967) 5月 九州電力株式会社社長

昭和48年(1973) 4月 九州・山口経済連合会会長

昭和49年(1974) 4月 勲一等瑞宝章受章

5月 九州電力株式会社会長

昭和53年(1978) 4月 福岡朝倉会会長 

昭和54年(1979) 7月 福岡商工会議所会頭

昭和58年(1983) 5月 九州電力株式会社相談役

平成 2年(1990) 2月 逝去  



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