加藤 新吉     (明治29年〜昭和29年 朝倉中学第2回卒 故人)


郷土を愛し、郷土の人々に尽くした政治家


 故郷の自然を愛しそこに暮らす人々を愛した人物。戦後の苦しいくらしの中で村を思い、国の未来を思い、故郷の人々を豊かにするための政治に力を尽くした人物がいました。

それが三奈木の「加藤村長」その人です。

 

加藤新吉、三奈木村に生まれる

 

 新吉は、明治29年(1896)6月8日、朝倉郡三奈木村(現在の朝倉市三奈木)に衆議院議員加藤新次郎の長男として生まれました。幼い頃から、新吉は外で元気に遊ぶのが大好きでした。澄んだ小川で皆の先頭に立って魚をとり、木登りをし、草花の中を走り回っていたといいます。豊かな自然に囲まれた三奈木村で、新吉はすくすくとたくましく育っていきました。

 しかし、小学校4年生の時、新吉とその家族を悪夢が襲います。「頭が痛い。」そう言いながらも授業を受けていた新吉でしたが、高熱のため突然床に倒れ込んでしまったのです。病院に運びこまれた新吉は、どうにか熱も下がり落ち着きを取りもどしましたが、その時、病院の先生から信じられない言葉を聞くことになります。

「残念ですが新吉君の足、高熱が原因で悪くなっております。おそらくこれから先、ふつうに歩くことはとても難しいでしょう。」

 そのときから、左足が悪くなった新吉は、生涯杖をついて歩くことになるのでした。

 学校に行き始めると、新吉は、友だちから毎日のように足のことでからかわれました。

「やーいやーい、びっこだ、びっこ。」

「くやしかったらここまでおいで。」

「あっかんべー。」

 けれども、新吉はそんなことはものともせずに毎日学校に通い続け、熱心に勉強に励みました。またこの頃から、新吉はたくさんの本を読み、読書を通じて豊かな心と知識を育んでいきました。高等小学校(今の中学2年生)にあがる頃には、「美しい花、鳥の鳴き声、木々に包まれた山々、三奈木は本当に素晴らしい。ばくは、この村に生まれて本当によかった。」

そう心から思えるようになっていました。

 その後、新吉は県立朝倉中学(現在の朝倉高等学校)を経て、明治大学に進みました。そして、大正9年(1920)6月に大学を卒業すると、南満州鉄道株式会社に入社しました。

 

欧米留学で様々なことを学んだ新吉

 

 ユニークな発想と持ち前の実行力で次々と仕事をこなし、また、勉強家で周りからの信頼も厚かった新吉は、入社して数年が経つ頃には、会社でも重要な仕事を任される存在となっていました。そんなある日、新吉は社長に呼ばれ、こう言われました。

「加藤君、欧米に留学してくれないか。そして、あらゆることを学びとり、我が社のため、日本のために尽くしてくれ。」

 昭和4年(1929)7月、新吉は欧米留学に旅立ちました。ソビエト、ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ・・・様々な国々を訪れた新吉は、この留学でたくさんの知識を蓄えていきます。経済のことはもちろん、それぞれの国の政治の仕組みや教育のあり方、人々の思想や宗教・・・。見るもの聞くものそのすべてを、新吉はどん欲に吸収していきました。この留学の経験が新吉の物事の見方や考え方に大きな影響を与えたことはいうまでもありません。欧米諸国のよさはよさとして受入れ、同時に日本のよさ、日本人のよさを再認識することにもなりました。

 その後、満州(現在の中国東北部)に戻ってきた新吉は、若くして華北交通の局長を務めるなど大いに活躍しました。

 

敗戦の混乱の中で

 

 昭和20年(1945)8月。

「大変だ。日本が戦争に負けてしまったぞ。」

「会社がなくなった今、俺たちはどうなるんだ。」

「とのかく日本に帰りたい。」

 敗戦直後、満州で働いていた人々は大変な混乱の中を生きていました。

「よし、おれが絶対に皆を日本に帰してやる。」

 新吉は、日本人が満州から日本へ帰れるようにするための世話人の役を引き受けました。自分自身も生きるか死ぬか状況の中、新吉は方々手を尽くし、自分が面倒をみると誓ったすべての人々が帰国の途につくのを見届けました。そして最後の船で、新吉自身も何とか帰国したのでした。

 人のためにできることがあれば、自分の命をも省みずに人のために行動する新吉でした。

 

村長は加藤さんしかおらん

 

 昭和22年(1947)4月。新しい選挙法になって、最初の村長選挙が行われることになりました。20数年ぶりに故郷三奈木村にもどった新吉でしたが、新吉のそれまでの業績やリーダーシップに期待する村民に押され、村長に立候補することになったのです。足が悪く、さほどお金も無かった新吉は、自分の子どもや応援する村人にリヤカーを引いてもらい、手弁当片手に選挙運動を進めました。各支部の公会堂を回っては演説し、村人の家を一軒一軒回って自分の考えを訴えることもありました。

「まずはじめに、御婦人方に申します。新しい憲法は、男女平等をうたっています。これからは、女性も政治に参加し、村を治めていくのです。」

「青年男女の皆さんも、政治に参加し村を治めてほしいのです。君たちは戦争のために十分な教育も受けられず、夢や希望を失われたと苦しんでいるでしょう。でも決してあきらめてはいけない。皆で立ち上がり乗り越えていこうと努力することこそが大切なのです。」

「選挙が終わったら政治は役人に任せておく、といった考えでは、村の発展はあまり期待できないと私は思っています。それでは、村民は4年間何もしないことになる。また何かしようと思ってもできないことになる。そこで、男も女も、青年も老人も、みんなで話し合って村のことを決めていく、そんな仕組みを私はつくりたいと考えている。」

新吉の熱心で分かりやすい言葉は、村人たちに希望と勇気を与え、その考え方もまた人々に受け入れられていきました。

 51歳のとき、新吉は三奈木村の村長に選ばれました。

 

三奈木村の村長となった新吉

 

「まず、青年から年寄りまで、男も女も関係なく、これからの村のことを互いに遠慮することなく、気楽にみんなで話し合える会をつくる。これを『全村協議会』ということにしよう。」

村長になった新吉は、早速、選挙演説で述べたことを実現させました。「全村協議会」の中で、自分の考えをできるだけ多くの村民に分かってもらうとともに、村人たちの生の声を取り上げながら政治を行っていくようにしたのです。

 この会を立ち上げるときには、当時の県知事や政治家など、数々の著名人がかけつけたといいます。戦後間もないこの時期に、こうした真の民主政治を進めようとした新吉の考えが、いかに素晴らしいものであったか分かると思います。

 

豊かで幸せな村をつくるための農業

 

「ここに一本の椿がある。こんなちっぽけな椿でも、村で協力して集めればりっぱな商品になる。豊かで幸せにくらしていくためには、もっと先を見て農業をしていかないかん。」

「この土は米作りには向いとらん。ばってん植木にはもってこいの土ばい。明日からわしが植木の作り方を教えよう。」

 新吉は、昔ながらのやり方で同じように米や麦だけを作るのではなく、乳牛や野菜、花作りなど、土地や気候などを考えながら、もっと科学的に農業を進めていかなければいけない。そのためには農業をする者も大いに勉強し、また皆で知恵を出し合ってやっていくべきだ、と村人たちに説得してまわりました。

 ある年のこと、恐ろしい害虫が発生し三奈木の田に大変な被害を与えようとしていました。

「よし、決めた。これしかない。」

新吉は対策法を思いつきました。村の65カ所にわたって蛍光灯をつけ、縦3〜4メートル、横3メートルの水槽を設置し、油を浮かせて害虫が寄って来るようにしました。さらに水槽の周りには、害虫が落ちるよう消毒剤をまいておくというものでした。新吉の閃きと実行力により、三奈木の田は害虫の被害から見事まぬがれたのです。

 どうしたら村人が幸せに、また豊かにくらしていけるのか・・・。新吉はいつも考えていました。

 

教育の発展に尽くす新吉

 

 新吉は、生涯学ぶことをやめなかった人物です。(満州の家には1万冊以上の本があったそうです)日頃から、「教育こそが人をつくり、村をつくり、国をつくる」と考えていました。

 まず、中学校を建てました。当時の中学校は、小学校の場所と同じ所に作るのが普通でしたが、新吉は小学校とは別の場所に広い敷地を準備し、りっぱな「十文字中学校」を建てました。

 さらに新吉は提案しました。

「ちょっとみんな聞いてくれんか。十文字中学校に50メートルプールを作ろうと思うとる。中学生が石を運び、三奈木と金川の大人の方々にも協力してもらって作ってもらおうと思う。」

 こうして、当時としてはめずらしい(九州で二つ目)50メートルプールが中学校に作られました。子どもたちも大変喜び、このプールで大いに練習に励みました。また、甘木・朝倉のみならず、筑後地区、福岡県内の水泳競技大会が、この十文字中学校の50メートルプールを使って盛んに行われるようになり、村自体も活気づいていきました。新吉の素晴らしい提案で、その後も多くのたくましい子どもたちがこの十文字中学校から育っていったのでした。

 

日本一の校舎を建てる

 

 「火事だ、火事だ!」

昭和25年(1950)5月17日の明け方、原因不明の火事で三奈木小学校が全焼してしまいました。新吉は、出張先でこの火事のことを知りました。しかし、その時すでに新吉の頭の中には、子どもたちのために「日本一の新しい校舎を建てる」という考えがありました。

 次の日、新吉は焼けた学校の近くに村人を集めて意見を聞きました。

「三奈木小学校を1400万円で建てたいと思っています。」

仮校舎を作ればいいという多くの村人を前にして新吉は続けました。

「これからの時代、まず教育が第一です。だから先に本校舎を建てます。お金は政府から600万円借りて、火災保険が400万円、残りの400万円は皆さんからの寄付をお願いしたい。私は、今後の給料を全部寄付します。」

新吉の三奈木を思う言葉に、村人たちはとても感激し、寄付金もほどなく集まりました。

 資金のめどがつくと、新吉は新しい小学校のアイデアを次々と提案していきました。

「三奈木は川が美しいから、川の流れる学校にしよう。小川を挟んで向こうに低学年の校舎、向かいには中高学年の校舎を作り、いつでも小川で自然のことを学べるようにしよう。」 

「窓の高さは、低学年は低く、高学年は高くする。トイレの高さも窓と同じように、学年ごとに高さをかえて作ろう。」

 さらに、校舎ができあがると「記念館」を作りました。一階に図書室、二階に郷土歴史資料館、屋根には、澄んだ音色で響く鐘が取りつけられました。「子どもも大人も勉強できるように、そして、いつまでも平和が続くように」そんな願いのもとにこの記念館は作られました。

 こうして他に類を見ない「日本一」の小学校、「三奈木小学校」は完成しました。

 

惜しまれつつ亡くなった新吉

 

 新吉の卓越した先見性と見識の深さは、県知事選挙や福岡市長選挙の候補者にその名が挙がるほどでしたが、請われて西日本新聞社取締役という要職に就いた意外は、村長としての仕事に全精力を傾けました。

 しかし、昭和29年(1954)1月29日、新吉は、福岡市内で倒れました。とても急な出来事で、だれとも話をすることもできないまま、58歳の若さで急死してしまいました。村人の悲しみは大変なもので、葬儀は村をあげて行われました。著名な学者も含め、千人以上の人が参列に訪れたといいます。新吉が村長として活躍したのは7年余りと大変短いものでしたが、その偉大な人柄と功績は今なお多くの人々に語り継がれています。

「皆で力を合わせ、素晴らしい村を、素晴らしい日本をつくってくれ。たのんだぞ。」新吉の胸像は、おだやかな眼差しで三奈木の山河をながめながら、そう語りかけているようです。



      「ふるさと人物誌」より。

平成20年3月、ふるさと人物誌学校委員会編集・朝倉市教育委員会発行



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